ブル君のページ
スケッチ日記




みなさまいつもスケッチの街並をご訪問下さりありがとうございます。このコーナーでは今まで僕が言いたい放題いろいろな出来事やコーチャンの行状などをしゃべっていましたが、やっぱりホームページには主人公のプロフィールも必要かと思いますので、このまま自己紹介のページとして残させていただくことにしました。おかげでこれからはなにをおしゃべりしようかと悩むことも無くなりほっとしているところです。
今71才ですから生まれたのは昭和11年と言うことになりますね。本当にはるか昔のことですよ。生家は手仕事屋さん、すなわち職人さんの家でした。望んだのかどうか自分でもよく覚えてないようですが、こわい親父さんだったらしいから、自然に同じ仕事をやるようになったんじゃないかと思いますよ。

仕事はいくらでもあったそうで、ひまで心配したことなど無かったと言っていましたね。座り仕事だったから人から見れば楽に見えるらしいですが、これが能率を上げるためには力を出すのと、早く手を動かすことしか方法が無いそうで、腰は痛いし背中も痛い。楽な仕事だなんてとんでもないと、少々憤慨していましたよ。
こんなコーチャンでも、結婚してくれる女性が現れたのは27歳の時でした。家は兄がいましたので、結婚と同時に安城市で独立をしたんです。始めの1年は暇そうでしたね。昼間からトランプなどで遊んでいることがよくありました。2年目くらいからはそこそこ仕事も増えまして、3年目からはいくら働いても追いつかないほどになったそうですよ。毎日へとへとになるまで働いていましたが、それもこれもくそ真面目な上に貧乏だったからでしょうね。
そんなわけで仕事のほうは順調でしたね。それもこれもみんなお客様のお陰ですと、感謝は忘れませんよコーチャンは… 
その頃のことですが、中学の同級生でいつの頃からか油絵を習っている友人がおりまして、示現会展で活躍していましたので、時々愛知県美術館に見に行っていたんです。そんな友人が羨ましかったんですね。わしなんかどんなにいい仕事をしても作品としては決して残らない」と。それはそうですよ、コーチャンの仕事は物を作るのではなく、いわゆる修理屋さんでしたから。
それは37才の時でした。相も変わらず寝る間も惜しむほど忙しい毎日なのに、一念発起して油絵の通信教育を受け始めました。これは2年続けましたが「通信じゃ駄目だ」がコーチャンの結論でした。そこでいい先生をと探し始めたとき、知人から日本画なら大先生を知っている、良かったら頼んであげるよ。と言われ、日本画がどんな絵なのかも知らないまま、紹介された先生の指導を受けるようになったんです。
その先生の指導は明快だったそうですよ。初めての時スケッチブックを持って来るように言われたので見せますと、ふんと鼻で笑われて「いい写生が描けなければ決していい絵は描けません」としっかり釘を刺されたそうです。その後もスケッチを見ていただくたびに言われることは「写生になってない」の一言だけ。「分からなかったら自然に聞きなさい。薔薇のことは薔薇が教えてくれます」だって。たぶん先生も先生の先生からそう言われたんだろなあ」と、月謝は薔薇に払おうかなどと思ったりしたコーチャンでした。
でもこの先生がいやだった訳ではないですよ。なにしろ8年お世話になりましたから。ただ、こと日本画の技法については描く所も見せてくれない、手一つ入れてくれないとう、いわば何一つ教えてくれない先生だったんです。確かにスケッチは上達しましたが、日本画は全然進歩なしという状態でしたよコーチャンは。失敗したら燃やしてしまえと言われたこともあったそうです。今時の先生は手取り足取り本当に親切な先生が多いと言うのに…
ついに9年目にして先生を替わりましたよコーチャンは。どんな先生かと言いますと、愛知芸大大学院を終了された若い先生です。この先生はどんな質問も丁寧に教えて下さる先生で、お陰で順調に進歩しました日本画も。そうしますと不思議なことにしっかりしたデッサンがとても強みになってくるんですね。最初の先生の教えも間違っているどころかその後にとても役立つことになりまして、今でも感謝していますよその先生に。
デッサンは一生ものだとか、崖から飛び降りた人が下までに着くまでに描いてしまうのが本当のデッサン力だ、などと、いろいろ言われますがコーチャンも、「向上心を持って描き続ければ、永久に上達しつづける」と言う哲学?を持っているんですよ。もう充分勉強したからこれでよしと思ったら、そこでストップするとも… それがデッサンと言うものだそうですよ。僕にはよく分からないですけど。
その後のコーチャンは職業も日本画も順調でしたが、60歳に近づきますと体力の衰えに悩まされだしましたね。毎日へとへとは30代も40代も50代も変わらなかったですが、次の日への疲れの繰越がだんだん多くなって来ましたね。それでも休日のスケッチは決して止めませんでした。まるで行けるあいだに行っておくんだと、より遠くへ走るようになりましたが、それも60才を過ぎますともう限界でした。仕事の途中でも終わってからでも、ただただ倒れるようにねっころがるだけ。日本画を描く元気などすっかり無くなってしまいましたよ。
そんな瀕死のコーチャンに強い助っ人があらわれました。それは62歳の時ですが、それまで外で働いていたご子息が、突然我が家で働かしてくれと言ってきたんです。なんでもお嫁さんが決まったそうで、「今の勤めじゃ食えんからだわと、強気なことを言っていたコーチャンですが、助かったーと言うのが本音ですよ間違いなく。

それからですよ移り行く街並を描き残そうと決めたのは。長年の無理の積み重ねですっかり傷んだからだは簡単には元気になりませんでしたから、近い所からと、今住んでいる安城市とすぐお隣の生まれ育ったふるさと西尾市の街並から描き始めました。すでに定年退職の年でしたから、仕事はどんどん減らして息子任せ、その分ますますスケッチに熱中するようになり、長年続けていた日本画も止めてしまいました。日本画を描く人は山ほどいるし、わしよりうまい人も山程いる。だけどことスケッチに関してはそうそう負けることはない」などど、自信たっぷりなんですよコーチャンは。きっと井の中の蛙さんだと思いますけどね。

71才のコーチャンは今とても幸せそうですよ。勝手に人の家を描くなといって追い払われるかと懸念していたのに、見に来たその家の人の誰もが喜んで下さるそうですよ。描き残すことに意義があるんだと分かったコーチャンは、ますます張り切ってスケッチに出かけています。いつの日か描き残したスケッチが何かのお役に立つ時がきっと来ると信じて。

ながいながいプロフィールになってしまいました。街中でスケッチをしている人などめったにはおりません。それはきっとコーチャンです。お見かけされましたら声をかけてやってくださいね皆様。
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